マスコミの偏った選挙報道への危機感

1983年8月2日。
開園したばかりの”東京ディズニーランド”のシンデレラ城の前。ピースサインに満面の笑顔で写っている小さな私がいる。

父は長年旅行会社に勤めていた。今から思うときっとその関係でチケットが手に入ったのだろう。

四国から一度も出たことのない母に連れられて、当時、豪華大型フェリーの先駆けだった「ほわいとさんぽう2」に乗った私は興奮し過ぎて一晩眠れなかった。

神戸港から伊丹空港へ。人生初めての飛行機。大きな機体が離陸時にフワッと上がるあの感覚がジェットコースターに乗ったみたいで、子供心に感動したのを覚えている。

フェリーに飛行機、はとバスに、ディスニーランド。父が、母と私にプレゼントしてくれた「初体験」の詰まった夢の旅行だった。

その日から2年・・・。 1985年8月12日。

あの日、母と私が乗った日本航空123便は、御巣鷹の尾根に消えた。

妻や子供を思うビジネスマンの父も、祖父母に会いに行く為に勇気をふりしぼった少年も、恐怖の中で何を思っただろうか。

あの日・・・父は22時過ぎに帰宅した。

既にその頃、報道特別番組が始まり、搭乗客の氏名が画面に次々と映し出されていた。その数に、子供とはいえ「とんでもないことが起こっている」ということだけは、うっすらと分かった。

「会社の同僚とお客様が乗っているようなんだ」と、血相をかえた父は玄関を開けるなり母に告げた。確認作業がいつまでかかるか分からないから、着替えを取りに一旦帰宅したという。いつも穏和な父の顔は違っていたのだろう。怖かったことだけを今でもはっきりと覚えている。

錯綜する情報に、父の身体を心配して母は一睡もすることも出来なかったようだ。

でもあの時、搭乗していた家族は、どんな気持ちで無事を祈っていただろう。明け方にやっと発見された機体は「絶望」という言葉しかない位粉々だった。

あの日から31年目の夏がまたやって来る。

離陸の12分後から始まった30分の闘い。15年後に公開されたボイスレコーダーに残っていた機長と運行乗務員2名の懸命な声は、確かに「乗客を助けたい」という思いだけだったと感じる。

乗客は、いつ自分を待つ運命を悟っただろう。小さなメモに、感謝とこれからの願いをしたためながら、ここで人生が終わってしまう無念に涙をこぼし、覚悟を決めたのだと思うと胸が締め付けられる。

私もあの当時のビジネスマンと同じような年齢になり、自分だったら、取り乱すことなく自分の運命を受け入れることが出来ただろうか、と考えてしまう。

どれほど無念だっただだろうか。どれほど切なかったかだろうかと思うと、自分が年齢を重ねれば重ねる程、この事故への思いは募る。

事故がなければ、たまたま123便に乗り合わせたという、ある日常の1日で終わるはずだった人々の運命。

事故を経て、それは世代が変わっても繋がっている。

機長の娘さんは現在、日本航空の客室乗務員として活躍されているそうだ。墜落したジャンボ機の機長の娘として苦しい日々を送ってこられたに違いないが、彼女はこの仕事を選んだ。そんな未来を当時の機長は想像しただろうか。悲しい事故の教訓を「未来」に繋ぐという仕事を娘さんは選んでくれたのだ。

その「未来」がある限り、事故はきっと風化しないと、私は思う。

123便に乗ったことのある乗客として、今年もまたあの日を迎える。そうだ、今年は自分の子供にこの話をしよう。「生きる」ことに懸命に闘った乗員・乗客の話を伝えよう。
未来の事故を防ぐ為に。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です